|
<9>
ぱちぱちと瞬きを繰り返した零は、そのまま踵を返そうとした鷲塚を呼び止めた。
「……お父さんが入院してる病院に、今から行くの?」
「ここからだと距離があるからな。
腹が減ったら、途中で何か食わせてやる。
あまり遅くなると、荒神の姐がうるさい」
鷲塚が「厄介なことだ」と呟くと、不安を感じた零は思わず眉をひそめた。
「……荒神の姐って、誰の事?」
「親父の女房──薫の母親だ」
詳しく説明することさえ面倒なのか、鷲塚が素っ気なく答えると、それを聞いた零は愕然と両目を見開いた。
「──ええっ!? お母さんもいるの? ど、どうしよう……」
いたってラフな部屋着を着ていた零は、そんな自分の格好を見下ろして、心底うろたえてしまった。
今まで一度も会ったことはないが、荒神会総長の妻ということは、いわゆる『極道の妻』で、さらには鷲塚の母親代わりということで……。
突然の事にパニックになり、ソファから立ち上がろうとした零は、足をもつれさせて再び転びそうになっていた。
「落ち着け。お前の事は向こうも知ってる。
カタギのお前を、どうこうしようとは思っていないはずだ」
すぐに手を伸ばして支えた鷲塚が呆れたように言うと、その腕にすがりついたまま、零はおろおろと聞き返した。
「──そ、そうじゃなくて、何着ていけばいい?
それから、お見舞い、どうしよう?
こ、こういうのは、もうちょっと早く言ってくれなきゃ、困るんだけど」
相手は鷲塚を育てた人なのだから、初顔合わせとなると緊張してしまう。
前々から予定されていたなら、服装やお土産も入念に用意できたはずだが、あまりにも突然だったため、心の準備すらできていない。
ところが、鷲塚は「何だ、そんな事か」と言うように片眉をつり上げ、困惑している零を見下ろした。
「他の奴らは入れるなと言ってあるから、服装は気にしなくてもいい。
見舞金も十分に渡してあるんだ。
お前が困ることなど何も無いぞ」
「えーと……そういうことじゃなくてね」
会話の肝心なところが微妙に噛み合っていないような気がして、心底困り果てた零は、思わず引きつった笑みを浮かべていた。
「──や、やっぱり、着物にした方が良かったのかな?
せめてスカートにするとか……。
お母さんに、変に思われたらどうしよう」
鷲塚が運転する車の中で、サイドシートに座っていた零は、おろおろしながら何度目かになる問いを発していた。
濃いサングラスをかけてステアリングを握っていた鷲塚は、そんな零を横目で一瞥し、うんざりしたように叱りつけた。
「いい加減にしろ。さっきから何回同じことを言わせるつもりだ? 少しは落ち着け」
途端にしゅんとなった零は、ぐったりとシートに寄りかかり、ため息混じりに呟いた。
「だって、真那は笑ってるだけだし、薫さんは海琉と一緒で『何でもいい』だし……」
あまりの急展開にびっくりしたためか、零は疲れていることも忘れてクローゼットに飛び込み、こういう時に頼りになりそうな親友にすぐさま電話をかけていた。
『……え? 鷲塚さんのお父さんのお見舞いに行って、お母さんにも会う?
リアルに極道の妻ってやつ?
そりゃあ大変だね〜、零ちゃん』
事の重大性を知ってか知らずか、真那はけらけらと面白そうに笑い始めた。
「──そうなんだけどさ。どんな格好で行けばいいと思う?」
『極妻だったら、やっぱ着物でしょ』
「真剣に考えてよ、時間が無いんだから」
クローゼットのハンガーをがちゃがちゃと移動させながら、零が切羽詰まった口調で泣きつくと、真那は束の間考え込んだ末、的確なアドバイスをしてくれた。
『そのお父さんとお母さんって、薫先生のご両親なんでしょ?
あたしより、薫先生に聞いてみる方が、いろいろ判るんじゃない?
薫先生なら、入院中のお見舞いとかにも詳しいだろうし』
それもそうかと思い、真那に感謝しつつ、急いで薫に電話をかけ直したのだが──。
幸い仕事前であったため、薫は電話に出てくれたが、あまり頼りにはならなかった。
『……お父さんのお見舞い? 何を着ていけばいいかって?
零ちゃんなら、何でもいいわよ。
来てくれるっていうだけで、お父さん、喜ぶだろうし。
海琉がずっとストップかけてたから、退屈してるのよね〜。
暇つぶしみたいなもんだから、あんまり気を遣わなくていいわよ』
「でも、お母様もいらっしゃるって……」
半泣きになりそうな零の声を聞き、薫もまた可笑しそうに笑った。
『ああ、お母さんの場合は、完全に零ちゃんの品定めよ。
あたしやお父さんから話を聞いて、ずっと興味津々だったんだけど、海琉が会わせてくれないから、怒っちゃってさ』
「薫さん──助けてください……どうすればいいんですか?」
クローゼットの中でしゃがみ込んだ零に、電話の向こうの薫はあっけらかんと笑った。
『大丈夫よ、取って喰われるわけじゃないし』
これも血筋なのか、鷲塚と同じような事を薫は言った。
これほどの緊急事態で追い詰められているというのに、どうして誰も理解してくれないのだろうと思い、零はがっくりと落ち込んだ。
そのあげく、先に身支度を調えた鷲塚がしびれを切らし、「着替えるならさっさとしろ!」と怒り出す。
親身になって考えてくれそうな新堂は、昨日ああいう事があったばかりであり、さすがに鷲塚の前で電話をかけるのは躊躇われたため、諦めるしかなかった。
結局、就職活動に使おうと思っていた薄いベージュのパンツスーツに、白いシャツという超無難な格好で出てきたわけだが──。
これで良かったという自信がいまいち持てず、車に乗って出発してからも、零はうだうだと悩みこんでしまうのだった。
その後、鷲塚が運転するシルバーのメルセデスベンツは、喫茶店『カッツェ』の前に堂々と横付けされた。
「……ここって、路駐禁止なんだけど」
急かされるようにして車を降りた零は控えめに抗議をしたが、鷲塚はそれに取り合う様子もなく周囲を見回した。
日本人男性の平均身長よりも遙かに背が高い鷲塚が、仕立ての良いダークスーツをまとい、サングラスをかけていると、何故かそれだけで目立ってしまっていた。
行き交う人々は遠慮がちに視線を向けるが、鷲塚の穏やかならぬ気配を察したように、すぐに目を伏せてしまう。
スーツ姿のサラリーマンが多いオフィス街であるにもかかわらず、そこだけ異様な雰囲気が漂っているようにも感じられ、零は慌てて店内に入った。
「──いらっしゃいませ。あれ……零さん!?」
テーブルを片付けていたアルバイトの翔太が、昨日に引き続き現れた零を見て、驚きの声を上げた。
翔太はすぐに手を止めて零に近づいてきたが、後から入ってきた鷲塚を見た途端、ぎょっとしたように立ち竦んだ。
サングラス越しに睨まれると、微かに青ざめながら、どうすればいいのかという風に零の顔を見返してくる。
「……えっと……気にしなくていいから。
今日はね、お見舞いに持っていくお土産を買いに来たんだ。
マスター、中にいる?」
零が小声で囁くと、翔太は綺麗な顔を引きつらせてうなずき、様子をうかがうようにちらりちらりと鷲塚に視線を向けた。
「じゃあ、俺、呼んできますね。
あ、あの……昨日はすみませんでした……零さん、足、大丈夫ですか?」
気に病んでいたのか、翔太の表情が暗くなった。
「大丈夫、大丈夫──すっかり治っちゃったよ。
そんな事より、ちょっと急いでるから、マスター呼んでくれるかな」
翔太がこのまま留まっていると、後ろの鷲塚が何かを言い出しかねないと恐れ、零は慌てて促した。
翔太は軽く頭を下げて、厨房に引っ込んでいる丹波を呼びに行く。
そわそわしながら丹波が現れるのを待っていた零の背後で、鷲塚が忌々しげにふんと鼻を鳴らした。
「──あいつか」
その声聞いた途端背筋に震えが走り、零はぎくしゃくした笑顔を浮かべていた。
「ま、まあ……誰でもいいよ。もう、治ったし」
零が「カッツェ」の寄りたいと言い出した時、鷲塚が珍しく反対しなかったのは、翔太の顔を見定めるつもりだったからなのだろうか?
そんな事を思い、零がほっとため息をつくと、濡れた手をタオルで拭きながら、丹波がいそいそと厨房から出てきた。
「零ちゃん、いらっしゃい……おや、今日はおそろいで」
場違いなほど威圧感を放つ鷲塚を見ても、丹波はにこにこしたまま顔色を変えず、穏やかに訊ねた。
「──お見舞い? 何を持っていくの?」
「焼き菓子か、クッキーがいいのかなあ。
突然決まったから、何も考えてなかったんですよね」
丹波の笑顔にほっとしながら、零は身を屈めてショーケースの中をのぞいた。
「……ケーキも美味しそうだけど……どうしよう」
「入院してる人なら、食事制限ある場合があるから、気をつけた方がいいよ。
お花の方がいいんじゃないの?」
丹波の助言に首を傾げた零は、厳しい表情で外に視線を向けている鷲塚を振り返った。
眼差しをちらりと零に戻した鷲塚は、「これ以上花はいらん」と答える。
「病室中花だらけで、嫌がらせとしか思えん」
それを聞いた零はさらに悩んでしまったが、丹波は面白そうに声を立てて笑った。
「入院のお見舞いって、難しいよねえ。
じゃあ、さっき美味しいコーヒー豆が入ったから、そっちの方がいいんじゃない?
それだったら、退院してからでも飲めるでしょ」
「お父さんとお母さん、コーヒー、好きかな?」
鷲塚が黙ったままうなずくと、それを見て安心し、零はやっと明るい表情になった。
|