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<29>
絶え間ない小刻みな揺れを感じて、零は意識を取り戻した。
朦朧としたまま瞬きを繰り返したが、目の前は暗闇に覆われていて、何も見えない。
まとまらない思考を急いでかき集めていると、聴覚が周囲の音を捕らえた。
──耳元で唸る車のエンジン音、カーラジオから流れてくるDJの声。
意識がはっきりしてくると、零は、口を塞がれ、手足を縛られて、車のトランクに転がされていることに気づいた。
(……どうしよう……誘拐?)
謎の男たちによる突然の襲撃を思い出した途端、心の中に再び激しい恐怖と不安が吹き荒れ、零は声を封じられた喉を喘がせた。
新堂が撃たれたのだ──自分の、すぐ目の前で。
崖から転落してゆく新堂の姿が脳裡に蘇り、零はその映像を打ち消そうと頭を振り、瞼をぎゅっと閉ざした。
(……いや……嫌だ……新堂さん!)
あの新堂が死ぬはずはない──恐ろしい結論を突きつけてくるネガティブな思考と、それに反する感情の絶叫に混乱し、零の身体はガタガタと震え始めた。
その時、車が何かに乗り上げたように大きく揺れ動き、ブレーキ音を響かせて止まった。
前方でドアが開き、車の外に出た男たちの慌ただしい足音も聞こえてくる。
すぐ近くにあったドアが開き、隙間から冷たい外気が吹き込んでくると、零は目をつぶったまま息を殺し、全身を強張らせた。
だが、ビニールシートが無造作に剥がされ、何者かの手が身体に掛かった途端、恐怖の悲鳴が喉を突いて迸った。
「──ウウーッ! ううぅ…ッ……ううっ!」
「……目が覚めたのか」
懐中電灯で顔を照らされると、瞼を透過した光が零の瞳を焼く。
全身を縛られたまま、必死で逃れようともがいていた零を見下ろし、不気味なしゃがれ声の持ち主がそう呟いて嘲笑った。
その後、二人の男の手によって、零は車から運び出された。
(……助けて……助けて…ッ──海琉!)
どんなに叫んでも、ガムテープで塞がれた口からはくぐもった呻き声しか出ない。
このままどこに連れ去られ、何をされるのか──新堂のように、ここで自分も殺されてしまうのか……。
恐怖と絶望に心が侵蝕され、生命の危機を感じた零の双眸から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
男たちは、明かりの灯った建物の中に零を運び込むと、硬いフローリングの床にその身体を下ろした。
零の周囲でどかどかと足音が響き、しばらくすると少し静かになる。
だが、すぐ傍に自分を見下ろしている男の気配を感じ、零はどうしても目を開けることができなかった。
瞼を開き、そちらを見れば、際限のない恐怖に突き落とされる──そんな予感がする。
それからほどなくして、男たちは同じ部屋の中に、猿轡を噛ませた一人の若い女性を連れ込んできた。
悲鳴のような呻き声が耳に届くと、不審に思った零は、怖々と薄目を開けてそちらをうかがった。
床に倒れている零の目には、彼女の足許しか見えない。
裾がほつれたジーンズに、ボロボロの汚れたスニーカー。
できるだけ首を捻って仰ぎ見ると、恐怖で打ちのめされたように泣きじゃくり、狂ったように顔を振り立てている、まだ十代くらいの少女が見えた。
死にもの狂いで抵抗し、引きずられながらも足を踏ん張っている少女の濡れた頬には、亜麻色の髪がべったりと貼りついている。
少女は日本人ではなく、外国人のように見えた。
だが、顔立ちは明らかに異なっているものの、髪の色や髪型、そして背格好が零とよく似ている。
一瞬、鏡に映った自分自身を見ているような気分に陥り、零は目を大きく瞠った。
少女もまた、床に倒れている零に気づいたのか愕然と目を見開き、呻き声を上げながら大きく身を捩った。
助けて──と、全身から迸る彼女の悲鳴が聞こえるようだった。
「……確かによく似ている」
と、その時、零の傍に立っていたしゃがれ声の男が、泣き叫ぶ少女をじっと見つめ、含み笑いをしながら呟いた。
男は喉を震わせるような気味の悪い笑い声を立てると、突然、うつ伏せに倒れていた零の身体を仰向けにひっくり返した。
恐怖に見開かれたセピアの瞳が男の姿をとらえた途端、零の心臓は恐怖に凍りついた。
黒いニット帽とマスクで顔を隠した男の双眸は、狂気に血走り、ギラギラと光っている。
男は零の額に銃口を向け、目を細める笑みを浮かべた。
「抵抗すれば撃つ。じっとしていろ」
しゃがれ声で念を押すと、男は拳銃をウエストに挟み、同じ覆面姿の仲間からナイフを受け取った。
「急げ。そっちの女も脱がせろ」
ナイフを差し出した仲間に短く命令し、しゃがれ声の男は、零を拘束するガムテープを一枚ずつ切り剥がしていった。
その間も、男は恐怖に青ざめた零の顔をじっと見つめ、わざと怖がらせるように目の前でナイフを閃かせる。
最後のガムテープを切った時、興奮で昂ぶっていたのか、男の息づかいは空気を震わせるほど荒くなっていた。
「──服を脱げ」
零の胸ぐらをつかんで引きずり上げ、覆面の男がそう命令した。
唐突な言葉に零は息を止め、呆然と男を見返した。
恐怖で思考は麻痺してしまい、頭の中が真っ白になっている。
男の腕に吊り下げられ、辛うじて足は床の上に立っているが、今手を離されたなら、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちてしまうだろう。
ところが、突っ立っている零に痺れを切らしたのか、男は零の衣服に手をかけ、強引に脱がせようとした。
「……う、くうううっ───ううっ!」
我に返った零は、「止めて」と懇願するように呻き、頭を振りながら、一歩後退ろうとした。
その途端、男が手を離してしまい、零はフローリングの床に頽れてしまう。
「早く脱げ」
残酷な言葉が即座に飛ぶと、零は涙ぐみながら、震えが止まらない身体を辛うじて守っている衣服に手をかけた。
視界の隅に、激しく嗚咽しながら服を脱いでいる少女の姿が映る。
彼女もまた、どこからか拉致され、この場所に連れてこられたのかもしれない。
絶望と恐怖に支配されていた零の脳裡に、その時「何のために?」という疑問がちらりと横切った。
だが、下着姿になった途端、零は激しい躊躇と羞恥に駆られた。
全裸になれば、己の秘密が暴かれる──そんな事を躊躇っている時ではないはずだったが、裸体を人目にさらすことには、心理的な凄まじい葛藤があった。
身体を隠すようにして零が床にしゃがみ込んでしまうと、好奇の眼差しで食い入るように見つめていた男は、床に脱ぎ落とされた服を拾い上げた。
その服を、やはり下着姿になった少女に向かって放り投げ、男は「これを着ろ」と日本語で命じる。
言葉は通じなくとも、言われていることは理解したのだろう。
少女は床に落ちた零の服に飛びつくと、慌てた様子でそれを身につけ始めた。
長身だが、華奢な体つきの少女の身体に、零の服は誂えたようにぴったりだった。
双眸を眇めて少女の姿を見つめていた覆面の男は、仲間に「椅子に縛り付けろ」と命じ、自分は手錠を二つ取り出した。
それを合図に、ドアを見張っていた男が、巨大なスーツケースと毛布を運んで来る。
覆面の男は、抗う力を失っている零の両腕を、もう一度背中にねじり上げると、その手首に手錠をかけた。
さらに肩を押して腹這いにさせ、零の背中に馬乗りになると、露わになっている足首にも手錠をはめる。
手首に食い込んだ手錠の感覚に怯え、とっさに肩越しに振り返ろうとした零の目に、大きな革張りの椅子に縛りつけられた少女の姿が飛び込んできた。
恐怖に引き攣り、血の気を失って蒼白になった少女の口からは、途絶えることのない絶叫が迸っている。
助けを求めるように、零を見つめた少女の瞳に、落胆と絶望が浮かび上がった。
彼女が感じている恐怖が伝染し、零もまた悲鳴を上げそうになる。
ところがその時、零の背中に跨っていた男が、ぐっと耳の傍に顔を近づけ、しゃがれた声で囁きかけてきた。
「……もうすぐだ……もうすぐ復讐が叶う……」
残忍な喜悦が宿るその声と、生臭い吐息を耳に吹きかけられた瞬間、零の全身にざっと鳥肌が立ち、本能的な嫌悪と恐怖が電流のように駆けめぐった。
大きな呻き声を上げた零の目の前に、「大人しくしろ」と脅すようにナイフが翳される。
覆面の男は、中腰の体勢で零の身体を跨ぐと、革のグローブに包まれた手で、剥き出しになった白い背中を撫でた。
「これはもらっておく」
そして手錠で拘束された零の手首をつかみ、左手の薬指から指輪を抜き取ろうとした。
鷲塚から贈られた、何よりも大切な指輪──たとえ死んでも、手放したくはない。
とっさに抗うように零は拳を握りしめ、不自由な頭を振りたくった。
だが、覆面の男は零の拳を力ずくで開かせると、指輪を無慈悲に抜き去ってしまう。
その瞬間、黒々とした恐怖に染め上げられていた零の心に、深い悲しみと悔しさが溶け込んだ。
自分から何もかも奪って、この襲撃者たちは何をしようとしているのか。
嗚咽が喉をついてこぼれ、零は涙を溢れさせながら、苦しみを怺えようと唇を噛んだ。
(……海琉……海琉──お願い……早く、助けて……)
鷲塚の顔を思い出しながら、零は助けが必ず訪れると、必死で自分に言い聞かせた。
そう信じていなければ、このまま心が壊れていってしまう。
一方、覆面の男は、零の裸体に用意された毛布を巻き付けると、引っ越し業者が荷物を梱包するように、ガムテープで厳重に縛り上げた。
「ファントム──こっちも準備完了だ」
零の服を着せた少女を、逃げ出せないように椅子に縛りつけていた仲間の一人が、覆面の男にそう声をかけた。
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