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彼は「ファントム」と呼ばれていた。
本当の名は別にあったはずだが、そんなものはもう覚えていなかった。
心の中に刻印されているのは、果てしない妄執と憎悪。
脳裡に焼きつけたのは、彼を破滅させた憎むべき敵の姿と、求めてやまない大切な人の面影。
絶望と怨念、そして孤独──。
狂気の闇がじわじわと心を侵蝕し、やがて彼の全てとなった。
サラリーマンやOLが慌ただしく行き交う大通りから、細い路地裏に入ったところに、アットホームなたたずまいの喫茶店があった。
軒先にぶら下がるアンティーク風の看板には、コーヒーカップを手にしたオシャレな黒猫と「KATZE(カッツェ)」という店の名前が刻まれている。
ガラスの窓越しに手を振っている親友に、鳴川零は笑顔で手を振り返した。
真那と会うのは本当に久しぶりだった。
メールや電話で連絡は取り合っていたが、ここ三ヶ月くらい、お互いに顔を見ていなかったかもしれない。
「……相変わらず、恥ずかしい格好ですねえ」
零の傍らにぴったりとはりつき、周囲を警戒していた新堂が、呆れたような声で呟いた。
「そうですか? 似合ってるから、いいかなあと思うんですけど」
零はそう言って笑うと、豊かなコーヒーの香りが漂ってくる喫茶店のドアを開けた。
「零ちゃ〜ん、お久しぶり〜。ついでに、新堂さんも〜」
レースとフリルがふんだんに使われた黒いワンピース姿の真那が、椅子から立ち上がってはしゃぎ声を上げた。
「心配してたのよ〜。何だか忙しそうだったし」
人目もはばからず零に抱きついた真那は、独特の間延びしたしゃべり方で訴えた。
その大げさな抱擁を目撃し、近くのテーブルにいた他の客が、何事かというように訝しげな目を向けてくる。
新堂はゴホンと咳払いをすると、カウンター席を指差した。
「零さん。俺は、そっちにいますから……」
「すみません……ありがとうございます」
真那にがっしりとしがみつかれていた零は、首をひねって新堂を振り返り、申し訳なさそうに軽く頭を下げた。
「それにしても、ため息ばっかりついてた真那ちゃんが、急に元気になったなあ」
メニューを持ってテーブルに近づいてきたマスターの丹波が、笑いながらそう言った。
「だって、最近、つまらないんだもん。零ちゃんには全然会わせてもらえなかったし……」
唇を尖らせた真那は、じろりと新堂を睨み付けた。
それを見た新堂は、さも心外だと言うように片眉をつり上げると、そのまま無視を決め込んでメニューに視線を落とした。
以前、この「カッツェ」で働いていた零は、変わらない穏やかな雰囲気にほっとしながら、丹波からメニューを受け取った。
忙しいランチタイムが終わり、店内は空いている。
数人の女性と、休憩中のサラリーマンらしき人がいるだけだから、このまま混み合わなければ、真那とゆっくりお喋りができるだろう。
そう思いながら、零はいつも通りのカフェオレと、甘さ控えめなチーズスフレを注文した。
真那はコーヒーのおかわりと、濃厚なガトーショコラ。
カウンターに座っていた新堂も、オリジナルブレンドとチーズスフレを頼んでいた。
三人分の注文を取った丹波は、「そうそう」と呟き、にこにこしながら零に話しかけた。
「久しぶりだから、零ちゃんにはまだ紹介してなかったよね。
ちょっと前に、新しいアルバイトを雇ったんだ。
多分、零ちゃんや、真那ちゃんと同じくらいの年だと思うよ」
「それがね、結構、イケメンなのよ〜」
丹波がアルバイトを呼びに厨房に入っていくと、それを横目で見ていた真那が、唇をにんまりとつり上げて笑った。
それを聞いていた新堂は、むっとした顔で足を組み、カウンターテーブルに頬杖をつく。
しばらくすると、二人分のコーヒーとケーキを持った青年が現れた。
「はじめまして。『カッツェ』でバイトすることになった、田中翔太っていいます。
零さんの噂は、マスターからよく聞いてました。
俺、負けないように頑張るんで、よろしくお願いします」
人懐っこい笑顔で自己紹介した青年は、零の前でぺこりと頭を下げた。
すっきりとした細面で、二重瞼の大きな瞳を持った青年は、黙っていると女の子のようにも見えた。
「カワイイでしょ〜。田中君、大学生なんだって」
真那が大きく首を傾げて同意を求めると、「カワイイ」と言われた青年は、気を悪くした風もなくにっこりと笑った。
無邪気で、魅力的な笑顔だった。
あまりにも天真爛漫で、人を惹きつける不思議な力がある。
一瞬、理由もなくドキリとしてしまった零に、彼は親しげに話しかけてきた。
「お二人とも、よければ俺のこと、翔太って呼んでください。
田中って名字、ヤなんですよね。どこにでもいそうでしょ?」
「あたしの周りにはいないけどな〜」
真那が笑うと、翔太は首を傾げて「珍しくはないよね」と呟き、OL風の女性に呼ばれて注文を取りに行った。
「中性的なとこが、ちょっと零ちゃんに似た感じじゃなーい?
マスターの好みなのかもねえ、ああいう雰囲気」
「たまたまじゃないかな」
返答に困って零が苦笑すると、ガトーショコラを口に運ぼうとしていた真那が、意地悪な笑顔で新堂の背中を見つめた。
「まあ……男くさいイケメンじゃないから、新堂さんもちょっと安心したかも?」
声をひそめて囁いた真那は、大きめに切ったガトーショコラをぱくりと頬張った。
「それにしても、よく鷲塚サンが出てくるの許してくれたねえ。
何だか判らないけど、忙しかったんでしょ?」
「う…ん、まあね。
私はいつもと変わらないんだけど、海琉がちょっと……。
大した事はないんだけど、お父さんが入院しちゃってさ。
しばらく療養しなきゃいけないらしくて、それでバタバタしてたんだよね」
零がほっと嘆息をもらすと、真那はきょとんとした顔で、長い付け睫毛に縁取られた両目をパシパシと瞬かせた。
「あれ……あたしが思ってたより、もしかして深刻だった?」
零は慌てて微笑み、安心させるように頭を振って見せた。
「そんな事はないよ──過労だって聞いてるし。
ただ、その療養先が都内じゃないから、往復するのが結構大変みたい」
「薫先生の病院じゃないの?」
驚いたように聞き返す真那に、零は首を傾げて見せた。
「いろいろ問題があるらしいんだよね。
それに、お父さんが都内は嫌だって言ったみたいで。
海が見える方がいいとか、何とか……」
真那にどこまで話そうかと考えながら、零はちらりと新堂に視線を向けた。
あまり大っぴらにはできない事情なだけに、詳しく話すのが躊躇われた。
それを暗に察したのか、真那はさり気なく「大変だったね」とねぎらい、湯気を立てるコーヒーカップを持ち上げた。
その時、カランとドアのベルが鳴り、スーツ姿の男が入って来た。
ふと視線を上げた零の目に、「いらっしゃいませ」と明るく挨拶する翔太の笑顔が飛び込んでくる。
一方、カウンター席に座っていた新堂もすばやく振り返り、緊張した面持ちでその男を観察していた。
「──ク、クヌギ……さん。どうして、ここに?」
翔太は、驚愕した顔でその男の名前を呼んだ。
「仕事で近くまで来たから。君がバイトを始めたって聞いていたしね」
男が穏やかな口調で答えると、翔太はぎくしゃくとうなずいた。
そして、すぐに自分たちに注がれている好奇の視線に気づき、慌てた様子でその男を奥の席へと案内し始める。
「わお、超イケメン!」
うっとりとした眼差しでその男を見つめていた真那は、彼がテーブルの横を通り過ぎていくと、大きく目を見開いた。
「零ちゃん、零ちゃん! あの人、弁護士だよ!」
胸元を示すように指で押さえながら、真那が興奮したように囁きかけてくる。
よく判らずに零が首を傾げると、真那は「弁護士バッジ!」と小声で教えてくれた。
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